うぇあばうつ

ゆくえの行方

誰か日本語の使い方についてなんか言ってるぜ聞きながすな

【ウケないアマチュア作家が小説の勉強をするとウケるようになるのか】2.正しい日本語、使えてる?

 さて、いよいよ小説の書き方の話しが始まります。

 いまさらですが、もともと『売れ全』(『売れる作家の全技術』)は、著者の大沢氏が、ガチでプロ作家を目指している人を募り、数回にわたって行なった「講義」をもとにした本のようです。
 そんなことも知らずに買って、ごめん……。

 受講者を募るにあたって原稿を提出してもらい、それを元に12人の作家志望者が選ばれたようです。
 ガチでプロを目指していて、基本的な日本語の使い方ぐらいはなっていて、それなりに原稿を書きあげることのできる人だけが受けられた講義、ということですね。

 それでも最初のほうに「日本語はちゃんと使え」という話しがあるのですから、いい文章だの悪い文章だのの前に、正しい日本語を使って文章を書くことがどれだけ大切で、そして難しいのか、わかります。

まずは自分の日本語力を疑うこと、そして辞書を引くことをぜひ習慣にしてください。

 自分の使っている日本語が間違っていることって、なかなか気付きません。しかも普段の生活で、いちいち「その日本語おかしいぞ」なんて指摘してくれる人は、そうそういません。

 たとえば「確信犯」という言葉。みなさんはなにを思い浮かべるでしょう。本来の意味を知っていたとしても、「わかっててやってる」という意味を思い浮かべるかたが多いでしょうし、今や圧倒的にその意味で使われています。
 わたしだっていちいち「それ誤用だぞ」とか、言ってねえぜ、知らねえ。

 本来は、己の政治的な、あるいは思想的・宗教的な信念(これが「確信」というわけです)に基づいて、その義務感や使命感から犯罪をなす人、のことを指しています。
 日常生活の中で使う言葉というより、法律の言葉なんですね。政治犯や思想犯と呼ばれるものが、これにあたる、とのことです。

 ただし、言葉は生き物です。誤用が広まったために、辞書の内容が変わる、なんてことはよくあって、今は辞書によっては「転じて、悪いことだとわかっていながら、わざと行うこと」みたいな記述があったりします。

 この令和の時代に、「ナウでヤングな」とか言ってたら笑われるかきょとんとされますし、もっと古い言葉で「今めかし」とか言っても、通じません。
 ちなみに「今めかし」というのは、古語で「今どきの」といった意味です。いつの時代も、人々は流行に飛びつき、またある人々はそうやって流行を追いかける人々を馬鹿にしたわけですね。知らんけど。

「性癖」なんかも誤用が広まっていますね。もともとこの言葉にセクシャルな意味はありません。

 個人的には、「誤用が広まっている言葉」については、小説の少なくとも地の文では使わないというマイルールを設けています。
 というのも、本来の意味で使っても伝わらないかもしれないし、かといって誤用のほうで使うと「こいつ日本語の使い方がおかしい」と思われちゃうかもしれないから、です。聞きながすふりして真に受けるので……(いや、誰にもなんにも言われないけど)。

 問題は、わたしは全ての日本語の誤用について把握しているわけではない、ということです。
 まさか誤用とは思わずに使っちゃってる日本語があるかもしれず、そればっかりはまあ自分では気付かない、ということです。

 これについてはもうとにかくどんなに「さすがに間違ってないだろ」と思っている言葉についても辞書をひきまくるか、めちゃくちゃ日本語に詳しい人に原稿を読んでもらうか、あとは諦めるしかありません。

 わたしとしては「普段から日本語の使い方に気を遣っておく」ぐらいの対処しか思いつきません。原稿を書くときだけ辞書をひこう……、なんて、絶対にひくようにはならないので。少なくともわたしは。
 それなら普段から、ふと気になった日本語は辞書をひいて調べてみる。

 この間は「同担」について調べてたら、Wikipedia の森に迷いこんでしまいました。
 だれかわたしの担当になってくれ。推してくれ。

 ……なんの話しでしたっけ。
 まあとにかく、小説を書くときは母国語じゃない言葉を使ってるぐらいの気持ちになってもいいのかもしれません。オレ、ニホンゴ、ワカラナイ、シラベル、みたいな。

 少なくともプロの作家になりたいなら、ストーリーがどうのとかの前にここをクリアしなければならない、と。

 大沢氏は「一人称の小説を書いてきてください」と原稿を募ったとのことです。これにもちゃんと意味があって、一人称で書こうとすると、どうしても使える情報が限られるから。

一人称にすると、情報が一点からしか入ってこなくなるわけで、これは物語を動かす上でかなりの足枷になります。書き手がつい「と言いつつ、実はこうでした」というように書いてしまったらそれだけでアウトです。

「彼女は怒った」と、一人称小説の地の文では書けません。書けるとしたら「彼女は怒っているようだった」とかでしょうか。あるいは「彼女は声を荒げた」とか。

 反対に「僕は怒っているようだ」も、おかしいわけです。
「僕」は「僕が怒っている」ことを当然、知っています。なのに「怒っているようだ」って、「僕」がちょっと頭がおかしくなりかけている描写としてならアリかもしれませんが。

 大沢氏は受講生が提出した原稿に対して「ここがおかしいぞ」というのを丁寧に述べているので、かなり勉強になります。っていうかわたしの原稿も見てもらいてえ。

 ちなみに時々、質疑応答の場面が挟まれているのですが、とある受講者の「自分の実体験を作品に反映させることはあるのか」という問いかけに、こう答えてらっしゃいます。

もちろん。特に失恋はばっちり反映させます(笑)。二十代の失恋と五十代の失恋では重さが違うので書き方も変わりますし、情けない思いをしながらも「これって小説に使えるなあ」と考えている自分がいたりして、その辺が悪魔的商売だと思います(笑)。

 これ、すごくわかるんですよね。わたしも嫌なことほど「小説のネタにしてやるわ!」と思っちゃいます。
 つらい経験をネタツイートにするのも、似たようなことなのかな、と勝手に思っています。

 さらに、その惨めさをどう書くか、についても触れられているのですが、ズバリ「本人はちっとも惨めとは思っていない、けれど周りから『この人、惨めだなあ。っていうか、イタいなあ』って思われているほうが、より惨めになる」とのことです。

 実体験をもとにすると、どうしても「つらかったんだよ〜」という気持ちが前に出てきてしまう気がします、わたしの場合。
 でも、「ほら、わたしってかわいそうでしょ!」って書いても、全然かわいそうではないわけです。まあ、それはそれで不幸自慢してるイタい人っていう話しもあるけど……。

 まあそういうわけで、つらくてたまらない人は小説を書きましょう。

Jan. 29th, 2023
本日の1曲:ソドシラソ / syrup16g